会報バックナンバー

2021年

(2021年7月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/020/夏号

2020年7月発行/020/夏号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
『親をおりる』(彩流社刊)を読んで、感銘をうけたという都内に住む男性からメールを貰った。
 全く見ず知らずの方で、中学生と小学生のお子さんの子育てに日々悩んでいる、ついては『「いのち」からのことづけ』も読みたいのですが、どうすれば購入できますか、という問い合わせだった。
 すぐに振込用紙を入れて冊子を送った。振込は数日後にあったが、しばらく連絡はなかった。感想でもメールしてくれるといいな、と思っていたところ…。
 なんと、ナント!厚生労働省の職員の方で、尚且つ「月刊厚生労働」を発行している広報室長だと名乗られ、七月号に掲載するために、六月四日に厚労省職員向けの講演をして欲しい!と。
 いや〜!!びっくり!
「社会のリアル」に学ぶ勉強会の講師。
しかしこれこそが、楽しみにしていた「出会い」である。当日、厚労省の若手の職員の方々と直接話し合える機会を得て、嬉しく、楽しく、いい時間を共有することができ感激した。
 
自己保身しかない無策無能の為政者とはひと味もふた味も違った「官僚」「国家公務員」として、現場の生き苦しさを何とか手さぐりして知ろう、各々の「わたし」の状況に重ねながら、理解を深めようと努力する姿に出会うことができた。
生命や安全な暮らしより、支持率確保と選挙に勝つ、そのための経済活動としての五輪。何という変わらない政治の貧困!
きちんと言葉で語り、説明し理解を求める。
それが対話を基調とした民主国家の原点であるはずだが、語ろうとせず、説明せず、理解を求める努力をしようともしない。
2019年時点で民主主義の国・地域は87に減り、非民主主義国・地域は92に増えた。民主国家の数が非民主国家を下回るのは18年ぶりだそうだ。(スウェーデンの調査機関V-Demによる)
 
聞かず答えず、自ら発することなど全くと言っていい程しない。これが「民主」なのか。主権者は誰なのか。誰のための何のための国家なのか。
 
政治も社会も、私たちの小さな共同(日々のかかわり・関係のありよう)に依って成り立っている。
それが、こんなにも薄っぺらくて「ぺらっぺら」だった実態がコロナ下で明らかになった。緊急事態宣言や、まん延防止措置を発令して「人流」を減らす、抑え込む、と言いながら、世界から「人流」を呼び込み、国内でも「さざ波」以上の波を立てることは明らかな状況をつくり出す。
我慢して来た人たちは、既に動き出している。「動いていいのだ」と喧伝されているのにふさわしい展開である。
 余りにも人々の「気持ち・想い」からかけ離れている!
 
私たちが大切にしたいものは何か。
生命であり、小さくても豊かな、他者(全てのもの・こと)とのかかわりである。
 
 手間と時間がかかったとしても悩み・迷い・戸惑いながら丁寧に向き合い、互いを尊重し、大切にし合える「生きあえる」出会いの日々に向かって生きたいという願いと行動は変わらない。変えてたまるか!
 可能性があるか、ないのかは問わない。やりつづけて行くのだ。
 
2021年7月
明石紀久男
 

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2021年   2022/02/23   スタッフ

(2021年4月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/019/春号

2021年4月発行/019/春号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
 
この国の春、桜咲く季節を迎えます。
 
『春が来れば花が咲き、虫が集うー当たり前?でもどうやって彼らは春を知るのでしょう?鳥も植物も虫も、生き物たちは皆それぞれの方法で三寒四温を積算し、季節を計っています。そして植物は毎年ほぼ同じ高さに花をつけ、虫は時期と合わせて目を覚まし、それを見つけます。自然界の不思議には驚くばかりです。』動物行動学者・日高敏隆さんの「春の数えかた・新潮文庫」の帯文です。
 
三月出版を目指して「親をおりる」を書き上げ、初めての本づくりをしてきました。表紙の絵は連れ合いの則子さんの手によるものです。特に表紙は、河と桜。不登校やひきこもることになっている人たちにとって、この「桜の季節」は特別な時で、どんより重く、また置き去りにされて、「世間のイケイケ」をいやでも感じさせられる時期です。
 
「桜を見ることができない」と話してくれたひきこもる青年が居ました。次に進まなくてはならない季節、世の中の人々が次の段階に変化していく、前向きに登っていく「変わり目の季節」と捉えられている。

私たちも当たり前に「卒業」や「入学・入社」などなど、新しい環境に移行して「成長」を求める(られる)浮き足立つ季節であるという認識をもっている。そのことのプレッシャーがジトっと「いま」を続ける以外にない人々には大きくのしかかっていることは振り返られない。
その象徴が「桜」だ。春を告げ「新年度」を知らせる。
 
桜はこの国の象徴としても使われてきた樹であり、花でもあります。この国の先輩たちが勝手に作ってきたイメージです。
「貴様と俺とは同期の桜、みごと散りましょ、国のため」と唄われてしまった。
しかし、日本の「お花見」という行事は、広く世界に知られ、とても不思議に取り上げられたり、ほほえましい行事として取り上げられたりしています。
「お花見」は「桜」です。国策で全国に植えられた「ソメイヨシノ」の持つ歴史を知っておく必要がありそうです。
 
そうはいっても「桜はいい」です。桜もお花見も大切にしたいです。ハラハラと美しく風に舞う花びらを、「国家のために生命を捧げる」ということに結びつけた時代。何と悲しい時代だったのか。
そんなことが二度とあってはならないのだが、馬鹿な、全く無体な「戦争」に向かっていった政治の不在、愚かさが、現在また無態な政治家や政党やその周囲の人々にとっての「利益」だけに偏った「正当性」のうえに進められていると感じ、不快と危機感がつのる。
 
 馬鹿な、負けることのわかっていた戦争に突入していった。再び繰り返すことになりはしないか、あの頃から政治は何も変わっていないと、「政治の腐敗と無能」を強く危惧する。
 
 馬鹿なことをしている、馬鹿なことしかできないという認識が持てない。それでいて「国民の命と暮らしを守る」と平気で言ってしまえる政治。
 
 生態系に生きる虫や、花たちから、自然の在り様から学ぶことを忘れている。
 
 私たちの住んでいる、つくっている「国家」は危うい。
 
2021.4 明石紀久男
 

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2021年   2022/02/23   スタッフ

(2021年1月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/018/冬号

2021年1月発行/018/冬号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
 
何とも寒々しい心持ちで新しい年を迎えることになった。
コロナ禍によって、見えていなかったもの・ことが、はっきりと浮かび上がって眼前にさらされて来た。
ひどく重く、苦しいが、これが現実であり実体なのだ、と想い知らされる日々が続く。
 
1986年東京都中野区に住んでいた私は、区立中野富士見中学二年生の鹿川君に対する「葬式ごっこ」といういじめによる自死事件に大きな衝撃を受けた。
 
それは現在(いま)の状況と同じように、突然私の眼前に提示された「子どものおかれている実体を突きつけられた時」だった。私も子育ての時代に入り、学校を変えたい、教育の在り様を変えたい、と出来もしないことを自分の仕事のように思い込んで地域と行政とを「住民自治」と標榜して駆け回っていた。
あれから35年、遊悠楽舎を始めた2001年から20年になるが、現実は更に劣悪になってしまっている。
 
まったく、何をして来たのか。
「学校が子どものいのちを奪う場になってしまった」という想いだったあの頃から、現在(いま)や政治が、社会全体が子どもや女性、弱い者たちを追い詰め、いのちを奪う(自死に追いやる)時代になっている現状である。
経済優先の資本主義という体制が行き過ぎてしまって、本末の転倒が積み重ねられて来た結果だ。
現在(いま)もそれは政策の失敗として露呈している。
「国民の命と暮らしを守る」と言いながら、やっているのは「いのち」をないがしろにする政策だ。
死ななくていい人を死なせてしまう事態が、私たちに医療崩壊・医療破綻というかたちで、具体的に見えて来た。
 
 今迄も、見えないところで自死や孤独死が報告されていたが、やっぱりそれは他人事だった。
しかしそうではなくなって、やっと気づかされる事態に立ち至っている。
 不登校の子どもの増加にとどまらず、ひきこもる人達、そして自死する人の増加、中でも女性の記録的な増加が報告されている。これらは、社会不適応を起こしている人たちの波が、限界を超え出しているということだ。
 
 私の関わる生活困窮する人たちの相談を受ける現場でも、今迄、ギリギリに何とかやり抜いて来た人達の暮らしが破綻し始めた時期を越え、更に今迄、生活についての相談などしたことがなかったという人達の相談が増え続けている。
 
 本質的で本格的な社会体制の変換が求められている。
「新しい日常」がコロナ禍によって語られているが、私(達)に突きつけられている問題はもっと根深い。
 
「80・50問題」と言われる高齢化するひきこもる人とその家族の問題と通底している。これ迄つくられてきた社会の問題なのだ。
変換へのチャンスはいくつもあった。
1998年に阪神淡路の大震災が「絶対に壊れない」と言っていた高速道路の崩壊とともに「信頼」が崩れた。
2011年の東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故は、更に大きく「安全への信頼」を失わせた。
そして2020年このコロナ禍である。
 
「新しい日常」は小さくしても、確かな、信じ合える「安全・安心」の気持ちの原点から始まらなければならない。
空疎なことばの繰り返しと無策に腹の底から憤る。
しかしそれは私達自身が招いたものだ。
私達に「変える責任」がある。
そして「わたしが変わる」責任がある。
何を大切にするのか、問われている。
 
 
2021.1 明石紀久男
 
 

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2021年   2022/02/23   スタッフ