会報バックナンバー

2019年

(2019年11月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/013/秋号

2019年11月発行/013秋号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
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(内容は、2019年11月時点のものです。)

こんなに綺麗な空を見たことがあっただろうか、と思えるほど、夏空から秋空にうつりかわる、この時期の空の、青のグラデーション、そして雲たちのおりなす姿の美しさ。それを演出するかのように扇のように大きく広がるうろこ雲と、ぽっかり浮かぶ雲を静かに止めおく風の流れの絶妙さ…。
 これが「自然なんだ」なぁ、と思わせてくれる光景が眼前に広がる。
 こんなに美しい世界に生きているんだ、と。今さらながらに痛く感じ入る。
 
 自然はわたしたち人間に感動を与えてくれるのだが、人間たちの在り様に、あたかも異議の申し立てをしているような所業を見せることもある。
 
15号につづく19号の台風の襲来は、わたしたちの暮らしが、いかに自然から遠く離れ、不自然なものになっているかを思い知らされる機会になったのではないだろうか。
 
 雲がゆったりと流れて行く。
雲が流れているのか「わたし」が自転しているのか、空を見上げなければ、この美しい雲に出会うこともないし、美しいと感じる「わたし」に出会うこともない。
出会うことによって感じることができるし知ることができる。出会わなければ何ごともないことになる。つまり存在を知ることがなくなる。(感じる「わたし」の存在にも。)
 
 認識ができない。
 
 認識できなければ、まったく関係をとり結ぶなんてこともできない話です。
 
 ライオンを知らなければライオンという動物はこの世に存在しないことになりますよね。
 
 目をそむけず、しっかりと見つめること。の大切さを思います。
 
 何を見るのか、感じるのか、それは自然の一部として存在している「わたし」です。
 
 「わたし」が不自然であれば、必ず自然からの異議申し立てを受けることになるのだろう、と思います。
 
 「社会」という人間がつくり出したシステムの中に、余りにもよりかかりすぎて来たのではないか。
 「科学技術」という評価、認識に余りにも埋没して来たのではないか。
 
「人間」は自然をコントロールできるかのように思い込んで来たのではないか。「わたし」という自然さえもコントロールできないのに、原発をアンダーコントロールと言い放つ権力者を生んでいる。
 
 そんな現在(いま)という時代を
 わたし達は生きている。
 
 「ともに生きる」とか「共生社会」とか言われているのは、そうなっていないからですよね。
「ともに、誰と(なにと)生きる」のか「共生」する「社会」とは誰と(何と)共生する「社会」というシステムを生きるということなのか。
 
 生者(全ての生き物)と死者(先祖だけでなく食卓にあがってくれる生命たち)とそれら全てを育み、包んでくれている大自然と「ともに生きる」「共生社会」が求められているのではないか。
 
 「自然(じねん)に生きあう」ことにしたいですね。
 
2019.11 明石紀久男
 
 

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2019年   2020/12/10   スタッフ

(2019年8月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/012/夏号

2019年8月発行/012夏号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
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(内容は、2019年5月時点のものです。)
 
シリーズ「80・50」

理不尽なことが起こる。
 
 そうした「もの・こと」が準備され、そうした「もの・こと」はおこる。
 そうした「もの・こと」を実は含みこんだ社会、時代、をわたし達は生きているし、生かされている。
生きざるを得ない状況に現在(いま)がある。
 見えていない。いや見ようとしていない。うすうすはどこかで感じているのではないか。
怖い。恐ろしい、不安な、うっとうしい想いが「わたし」の中にも・・・実は生まれているのではなかったか。
突然、何てことがおきるんだ!!
「あり得ない」「信じられない!」しかし、
「もの・こと」は起こるべくして起きている。だとすると準備されている「もの・こと」が見えていない。見ようとしていない「わたし」が居るというだけのことなのだろう。「わたし(たち)」が見たくない、見ようとしていない「もの・こと」とは何なのだろうか。
 それは「変化への態度」なのではないだろうか。「わたし(たち)」は、変わりたくない。きょうのままの「あした」が安定しているし安心できる。と思い込んでいる。
 しかし環境も、状況も、刻々と変化している。
 何もしなくても「変化し続けて」いる。そのことについて行くのが精一杯なのかもしれない。
 人間の細胞は3ヶ月で全て入れ替わっているらしい。
なのに「変化」を恐れ、頑としてこの流れの中に居ようとする。それは「質よりも量」という変わらない基準である。
 量を基準にした体制(制度)はちっとも動かない。わたし(たち)自身が量で計ることに慣れ慣らされて来てしまっていて、「質」とは何かを見失ってしまっているかのようである。常に求められるのは○、正解の量なのである。
 税金も多くの場合、質にではなく量によって配分され続けている。
 30年程も前に、当時の担当課長に「財務課を通すには“数字”なんだよ。能書きでは通らない。」と言われたことを思い出す。つい最近もかんぽ保険、郵便局の年賀状がやり玉にあがっていた。売り上げノルマとは良く聞く言葉だ。そうした「もの・こと」の全ては、貨幣、つまりお金の量に行きつく。
 より多くのお金を得る、得られる方法。かしこく上手に手に入れる。沢山の貨幣を得ることのできる生き方。
 汗して得たお金も、拾ったり、盗んだりしたお金でも、一萬円は一萬円である。つまり「質」は問われることがない。
 価値があるのは貨幣に換算できる「もの・こと」があるという基準。障害のある人や、子どもを産まない女性に対して「生産性」がない、と言い放つ。
 
 あたかも貨幣(お金)にならない「もの・こと」には価値がないかのようである。
 
しかし、僕がずっとかかわっている「ひきこもる」人とその家族への応援は、時間がかかる。つまり質も量も大切だ。
 時間をかけてすれ違って来ているものを、理屈や論理で、さっと変えることなんてあり得るはずがない。
 見えやすく、理解しやすい量に走って、見えないものを見ようとしない、質を忘れて来たことによる「事件・事故」が続き、とどまることがない。
 何がそうさせてしまっているのか、を考えるとき、「生きていてもしょうがない」といった言葉に象徴されるような、ひとつひとつ、ひとりひとりの「いのち」「生きている」ということが、その存在の質として大切にされていない現在(いま)の「わたし(たち)」の在り様「日常」に閉塞感が重く充満しているように思う。
 
 見えない「もの・こと」をみようとすること、感じようとすること、「もの・こと」の本質を見つめようとする態度が現在(いま)もっとも請(もと)められているのだと思う。
 
2019.8 明石紀久男
 
 

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2019年   2020/12/10   スタッフ

(2019年5月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/011/春号

2019年5月発行/011春号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
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(内容は、2019年5月時点のものです。)

シリーズ「80・50」

春めいて、桜が咲いたかと思っているうちに新緑は日々に深まり、あっと言う間に初夏を感じさせる陽気になっていますね。みなさんお元気でお過ごしでしょうか?!
 
 3月29日に内閣府が「40〜64歳のひきこもり者」が全国に61万3千人いる、との推計値を公表しました。今迄の、15〜39歳までの「若者」の「ひきこもり者」の推計54万人とあわせると115万人になります。「ひきこもり」という言葉が人に知られるようになったのは、精神科医で現筑波大学教授の斉藤環氏が1998年に「社会的ひきこもりー終わらない思春期」という本を出してからだろうと思います。副題が示している通り当時は「思春期」特有の現象として「ひきこもるという状態」が捉えられていたことがわかります。いまだに「不登校・ひきこもり」というくくりで語られていることが多いですからね。
 
 今回の調査結果の公表は、男性が76.6%を占めること。期間は7年以上というのが半数近くを占め長期化・高齢化が進んでいることが裏付けられましたし、ひきこもり状態になったきっかけの第一位は「退職」ということでした。しかし行政(社会)の対応は「若者問題」という捉え方でした。なので、私が横浜市の相談員として勤め出した頃は「若者」の年齢は29歳でした。それが34歳となり現在は39歳となっています。
 
 「若者」と定義する年齢を上げることで「若者問題」に対応する部署あるいは機関が対応することを求められた訳です。そして、用意された支援策は「就労支援」です。つまり、ひきこもらざるを得なくなった本質的問題に向き合うことをせずに、「個人の問題」に目を向けて「就労=就職」という考え方に立った「支援策」がとられて行くことになりました。
 
 それは家族の望む「外に出て欲しい」「稼いでほしい(社会的なつながりを持って欲しい)」に沿ったものになったのですが、本人、当事者、ひきこもり者に向きあったこの社会の持つ「ひずみ」に向きあったものになることはできませんでした。そんな中で、ご家族もどう対処していいか分からず「ひとつ屋根の下で」ピリピリとした気使いの神経戦(お互い様なのですが)」に日々おかれどうしていいか分からない時間が流れて来た、というのが実体ではないでしょうか。
 実は彼ら(ひきこもる当事者)と、それを何とかしたい(幸せになって欲しい、せめて人間的な生活、日々を送って欲しい)と想い・悩み・考える周囲との存在の乖離が、どんどん深まってしまって来ているんです。
 
 何故こんなにも「社会(共同)から撤退」する人たちが増えてしまったのでしょう。そのことをずっと感じ、考えつづけて来た20年でした。

 大きな時代の要請による社会の変化と、核家族化する中で抱え込んでしまい、語り合うことの出来にくい「その家、家族、その個人の自己責任」という考え方が基本となって来てしまったのではないでしょうか。つまり「社会的な存在」としての「わたし」が「個人的な存在」としての「わたし」より、より強く求められてしまう社会(共同)になってしまい、「個人的な存在」である「わたし」の痛みや悲しみ、悦びや楽しさがずっと蔑ろにされることになって来てしまった。
 甘ったれるな!わたしも頑張っているのだからお前も頑張れ!と「ひとりの人間」としての悦びや痛みに寄り添えず、それは「親となったわたし自身」も叱咤激励の対象で「負けてはならない人生」を強要されて来たのではないのか、と考えさせられます。親も「ひとりの人間」であることをかなぐり捨てる。
 
 求められるのは「上手くやること」しかし、求めたいのは不器用でも、下手くそでもそんな「わたし」を正直に生きたいという願いとも祈りとも思えるような深層からの叫び、想いなのではないのか、と思います。
 
2019.5 明石紀久男

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2019年   2020/12/10   スタッフ

(2019年2月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/010/冬号

2019年2月発行/010冬号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
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(内容は、2019年2月時点のものです。)
 
シリーズ「80・50」

子どもが殺されていく。
 
昨年、目黒区で当時五歳だった結愛ちゃんが虐待によって死亡した。
「こんなことが二度とあってはならない」と何度も叫ばれながら、耐えがたい事態は止まることがない。
 
一月二十四日、野田市の小学四年生の心愛ちゃんが、
「先生、どうにかなりませんか。」と、はっきりと助けを求めたにもかかわらず、十歳の生命は守られることはなかった。
 
私たちは、どんな社会に生きているのでしょう。
 
僕が「子どもの居場所」が必要だ、と感じ「遊悠楽舎」としていまの活動を始めることになったキッカケも
当時中学二年生だった男児の「自死」でした。
 
彼は遺書に「こんなことが二度とあってはならない」と書いていました。
それが一九八六年の二月でしたから、三十三年前のことです。
彼の「自死」は教師も参加した「葬式ごっこ」という「いじめ」でした。
 
今回は、教師・学校・教育委員会そして児童相談所までかかわっているのです。
豊かになるどころか、どんどん「貧しく」「寂しく」なっているのではないかと実感する日々です。
 
通勤電車が「人身事故」で遅れています。またどこかで生命が失われたのではないか、と想いつつも足は職場に急ぎます。
 
ヨーロッパの国々にたどり着けずに幼児が亡くなっていくニュースにも触れます。
それは身近な原発事故から避難しておられる方々、さらに昨年は北海道から九州まで各地で災害があり、
多くの避難民を生んでいます。
同じ「難民」です。住むところを追われ、行き場を探して混沌としている。
 
私たちは分かち合えているんでしょうか。折り合い、助け合える共同(社会)をつくる方向に向かっているんでしょうか。
 
為政者は、あらゆる裏付け(データ)を自分に都合良く改ざんし、「うまくいっている、成功している」と強弁を続ける。
さらに「生まない方が悪いんだ」と繰返しうそぶき、その都度、撤回するNo.2。
 
じつはこうした「自分たちに都合のいい在り方」の強制が、
80・70世代から50・40世代に対して繰返し行われて来たのではなかったのかと思えています。
 
自分たちの「成功体験」を押し付け、「こうしろ」「こうすればいいんだ」と、
急激に変化する社会の状況に、革新的にかかわることをせず、「今迄」を「常識や普通」を次の世代に強要してきた。
 
 そのつけが、今現実となって具体に眼の前に現れ始めている。
 
 個人を尊重している様で、実は全く尊重しておらず、
前時代の同質化みんな同じ違っていないことを求める在り様を改めることもせず繰り返す。
 
 多様であることを認めることができず頭や口では言うけれど、実体は男尊女卑で自業自得、自己責任だけを押し付ける。
 
 ひとりひとりが大切に尊重される存在として在り、父親と母親、息子、娘とかいう関係にだけ縛られることなく、
ひとりの「わたし」として一人称で生きる人と人の生かし生き合う関係として成り立つ共同=社会への転換が必要である、
と痛感します。
 
2019.2 明石紀久男
 

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2019年   2020/12/10   スタッフ