会報バックナンバー

2018年

(2018年12月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/009/秋号

2018年12月発行/009秋号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
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(内容は、2018年12月時点のものです。)

シリーズ「80・50」
 
 前回、夏号で「かかわり」「関係」の質が問われている、と書きました。
今回はひどく書きあぐねて来ました。
それは、問われている「関係」「かかわり」の質とは何か、という問いに向き合わなければならなくなっていたからです。
しかし今回、半分諦めて書くことにしました。
 
実践編です。
つまり「かかわる、かかわられる」というのは、動いている状態な訳です。
 私たちは、一時も止まっていません。絶えず動いている。それが、「生きている」ということですよね。
 
あっちに出掛け、こっちに話し…ということが動いている、ということではありません。
私たち人間の細胞は、科学的知賢によって三ヶ月で全て生まれ変わる、と言われています。じっとしていても「変わっている」のです。それも「生まれ変わっている」のです。
 
そんな日々刻々変わっている私たちなのに、変わっていないものがあります。
それは、「わたし」をとり巻く環境、人々との関係です。
 
子どもを変える、というと、いやそれは違う、親が変わらなくては子どもは変わらない、などとよく言われます。
しかし、人間、そう簡単に変われません。変わらないことで安全を担保してきたのです、できるだけ変えたくないし、変わりたくない、と思っているはずです。
言われているのは、個人として変わることではないのです。
必要なのは「関係の変化」です。
 
ここ迄、色々努力してつくって来た関係がある、でもうまく行っていない。結果的に現在(いま)、乗りあげている。
だとしたら、今迄やって来たことを止めて、今迄やって来なかったことをやってみる、ってどうでしょう。例えば「ご飯」
 
ご飯を作りつづけて来た。それを辞めてみる。朝はこれ、昼はこれ、夜はこれ、と用意することを辞める。
 
せめて食事だけは…。身体のこと健康のことが心配だから…、と話される方が多いですね。
 
しかし、当事者に聞くと「感謝せねばならず、頂かなければならない。カップ麺が食いたくても、そうはいかない。悪いし、ガッカリさせてしまうし…」
 
さて、良かれと思ってしている事が、押し付け、強要、強制、支配になっていないか、考えてみる必要がありそうですし、そのことを本人と話す必要がありそうです。
声をかけて、食材は冷蔵庫にあるから好きに食べて、と提案してみる。
つまり、関係を、かかわりの在り様を少し、ほんの少しだけズラしてみるのです。
何らかの反応があるはずです。
いい反応の場合も、悪い反応の場合もあるでしょう。どちらでもいいのです。
「反応があった」ということが、新しい関係、かかわりの始まりです。
 
これはほんの一例です。ご飯づくりを全て止めた方がいい、と言っているのではありません。かかわり、関係を変える、そのことが大切なのだということをお伝えしたいのです。
相談に通ってくれて第三者とのかかわり、今迄なかったもの、ことが始まる。
そのことが大切なんです。
家族会への参加一つとっても、新しい今迄になかった関係、かかわりの中に身と気持ちを置くこと。
そのことの重要性を強く感じます。
 
2018.12 明石紀久男

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2018年   2020/09/12   スタッフ

(2018年8月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/008/夏号

2018年8月発行/008夏号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
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(内容は、2018年8月時点のものです。)

シリーズ「80・50」
 
「80・50問題」が80歳代の親御さんと50歳代の息子あるいは娘の「ひきこもり」問題として随分あちこちで取り上げられ、僕も講師として良く呼ばれるようになっています。しかし、「80・50問題」は語られているような親の高齢化、ひきこもり者の高齢化、という見方だけでは問題の本質から大きくずれてしまうと感じています。
 
 これまで行政では「ひきこもり」を若者の問題として「不登校・ひきこもり」というくくりで捉えて、教育委員会や青少年課といったところが対応を考えてきた。しかし、40代50代となると、立派なおとな。壮年である。
 
 で、どう考え、どう対応したらいいのか。どこの部署が対応するのか、という惑いの中に置かれることになってしまった。ひきこもる人を発見するのが、高齢の親御さんのところに入るヘルパーさんやケアマネさんであったりする。そのために「高齢化」問題の文脈で語られて来ている場合が少なくない。見えていなかったものが突然浮上して来たような状況なのです。
 
 そう、見えていなかった「もの・こと」が見えるようになって来たのです。
まさにわたし達が生きて来た歴史とその時々の社会(共同)のあり様の結果の断面が姿を現して来たのです。
 
 つまり、わたし達が何を大切にし、何をないがしろにして来たのか。その結果が、いま(現在)目の前に現れて来ている。そう捉えることが重要だと思うのです。
見えていなかった、いや実は見えていたのだが、無視(あるいは先延ばし)してきたことの結果が現在打ち寄せて来ている。
 
 オウム真理教の死刑囚が、13人、突然刑が執行されてしまいました。(世界の潮流は「死刑廃止」であり、僕も「国家の殺人」に加担している現状を拒否したいと思っている一人です。世界で死刑制度が残っている国はわずかです。)その13人の年齢、68・63・60、そして50代が9人、48歳が1人。「80・50問題」のもう一つの断面がここにもあります。
 
 各所の電話相談の年齢別件数を見ると、ほとんどのところで、40代が一位そして二位が50代です。「子育て」や「仕事」に関する相談も勿論あるのですが、「苦悩する世代」と言えるのではないでしょうか?
 
 そこにあるものは何なのか。
 
 フランス革命(1789年)から、個人を基調にした社会の在り方に向かった。そこには論理的・理性的である「人間という存在への信頼」があった。人間を不条理で、惑う存在としては捉えていなかった。各々の個人が全てにおいて意志と責任を持って考え行動する。そのことが求められる社会(共同)づくりが始まった。
 
 そこで生まれ、大切にされることになった概念こそが「自己責任」。
あなたはあなたの周囲の「もの・こと」とどんな風にかかわっていますか?
 
 個人「わたし」は、色々な「もの」や「こと」との関係(=かかわり)の中に生きている。
 
 自己が自己として完結して生きているわけではなく、歴史的・社会的・物理的・精神的などなどの環境の中に生きているわけです。だとすると「自己責任」は一方(的)であって、もう一方の社会(共同)の側の責任も問われなければならないはずです。つまり双方です。関係の希薄さ「孤立」が言われている。いま(現在)、その双方の「かかわり」が、どう育って来たのか、育ててきたのかが問われているのではないのか、「かかわり」「関係」の質が問われていると思えています。
 
 
2018.8 明石紀久男

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2018年   2020/08/27   スタッフ

(2018年4月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/007/春号

2018年4月発行/007春号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
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(内容は、2018年4月時点のものです。)
 
「春!気づいてみませんか、足許!!」
 
3月21日、咲き始めた桜に雪が降りました。そして数日後には、半袖になる様な夏日!地球温暖化が進行し、異常気象になっていると警笛が鳴らされて来ましたが、どうもその「異常」が当たり前になってしまい出した感がします。
 
「常識(=ふつう)」がずれだした。今迄の「常識」がどんどん通用しなくなりだした時代そして社会。
受け入れて、そうなのかぁ〜と諒解するしかない。勿論これは、お天気の話ばかりじゃありません。
 
有名飲食店のデタラメから、大企業のデータ改ザン。とうとう財務省や防衛省といった、民主主義社会の根幹を支える組織のデタラメと嘘が、公然と、しかも平然と明らかになる時代。政権・国家として成り立っていない。
 
異常が当たり前になる社会!
凄い時代を生きているんだなぁ、と日々つくづくと考えさせられます。
子ども達は、孫たちは、大丈夫なのだろうか、と、これから先がとても心配になります。
わたし達、現代を生きる者が何をどう選択するのか、それが将来を決めて行く。
「わたしの選択」それは大きな話ではなくて、日常の生活の中の、小さな小さな選択の話なんです。

ちょっと面倒だけど、ひと手間かける。お茶を入れてポットを使う。いつも使っている「何とかの素」ってやつを使わず、例えば道場六三郎さんが教えてくれているように出汁を取る。
 
面倒でも、手間ひまをかける選択をすることが、実は凄く大切なことで、そのことが将来への舵を切っていることになるのだ、と思います。
 
いま、どの方向に舵を切るのか
 
新しいものをいいものとして受け入れて来た歴史があります。江戸から明治への転身、そして1945年敗戦後、今迄の古い価値観は捨てられ、ぞくぞくと入ってくる米欧の新しい価値観。
 
神国日本のために命を捧げることが正しく、美しく、最高の価値にされていました。それを全て「墨塗り」にして、突然自由平等、民主主義、男女同権、という価値観が移植されたわけです。
 
移植されたものが、そう簡単に定着するはずはありません。移植されたものは中々一体化しにくいと思いますが、もの凄いスピードでアメリカという国家の利益(原爆情報の独占や、小麦の売りつけ等)を背景に、ドカドカと押し寄せ、入り込んで来ました。
 
「新しいものがいいものだ」と、わたし達も大歓迎。「変化すること」を強要されているとは気づかず、受け入れつづけて来ているのではないでしょうか?遊悠楽舎を始めた18年前、携帯電話はありませんでした。ピンクの公衆電話が廊下に設置されていました。僕はガラケーですが、ほとんどはスマホですよね。次から次に新機種です。アマゾンがトランプ大統領ともめていますが、新しいサービスは止まることがない。玄関前にドローンが来るのももうすぐでしょう。
 
変わらない、という選択はどうでしょう?せめて、現状維持。変えない、変わらない。
 
ドローンもリニアモーターカーも、原発も本当にいるんでしょうか。「もうこれ以上いりません。」と言いたいです。
何故か常に変わることを求め「変わらせよう」とすらしている「わたし」に気づきませんか。
 
進んでいるつもりで、後退している。
進めているようで「人間としての在り様」は実は何も変わっていないのではないでしょうか。
「便利であること」「面倒くさくないこと」を手に入れることで実は大切な多くのもの・ことを
手ばなして来てしまってはいないでしょうか。
 
立ち止まってゆっくりと時間かけて、ひとつひとつ丁寧に向き合って考え、行動する。
という「選択」を、まずは小さなひとつから始めてみませんか。
 
2018.4 明石紀久男
 

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2018年   2020/08/12   スタッフ

(2018年2月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/006/冬号

2018年2月発行/006冬号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
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(内容は、2018年2月時点のものです。)

歯の治療を続けています。
 
昨年の10月に、歯医者さんを替えました。
 
今迄は駅近の、通い易い場所の医院でした。いつも、不具合が生じたり、痛くなったり何かあると、その痛みや不具合のもとを取り除いたり、修理・修繕して貰って、一応終了しました。また何かあったら来て下さい、ということで通院して来ました。
 
しかし今回は、義歯を入れるという厄介な作業になりました。今迄のように、ちょこっと治療するというのとは違い、こちらの違和感を伝え、わかって貰いながらの行程です。しかしこれが上手く行きません。
 
伝えたい違和感を「わかろう」とするよりも、それは致し方ないから他の方法(義歯接着剤で調整するとか、とか、)しかないね、みたいな問題の処理が提案され、食べることに不都合が生まれる状態が続いてしまったのです。
 
しかし 患者の側からすると、もう随分長いつき合いでもあり、何とか少しでもわかって貰って、少しでもいい感じに収まってくれれば、と、どこかで通い慣れたこの歯科に通うことで収まらないものかと、願ってしまう心理(気持ち)が働きます。何よりまたいちから新しい医者を捜し、説明し、恥ずかしい状態を見せなくてはならないのは苦痛ですよね!!

躊躇の期間が続きました。
知り合いや友人から「歯医者」情報を集めました。そして10月に義歯が再び壊れてしまい知り合いから紹介された医院に、とうとう、いよいよ決断して転院しました。もう今使っている義歯が壊れている状況での転院です。不安が高まっていました。しかし、電話で申し込むと、状況を丁寧にしっかり聴いてくれた上で、即日、予約を入れて対応してくれました。
 
みなさんが相談員や居場所・通院先(医師)を捜す時もきっと同じような想いに捉われるんだろうなぁ、と思いました。
 
つまり、良くわからないんですよね。
 
歯が不具合なので歯医者に行かなきゃ、というのはわかる。しかし、歯の不具合とは、どういう事なのか、
を考えなければいけなかったのかもしれない。それは、現在、通院し始めて、治さなければならないのは、
一つ一つの歯ではなく(勿論、虫歯もあって一つ一つの治療も必要なのですが、)
 
根本的に必要なことは「噛み合わせ」の修正でした。

つまりつまり、わたし達が抱える、いや抱え込まされる「生きづらさ」の修正も「バランス」にあるのかもしれません。それは最近言われる「中動」ということでしょうか。受動と能動の「あいだ」の「中動」です。
 
受け容れすぎず、攻めすぎない。
 
消極的であったり、積極的であったりすることの真ん中を意識する。
それはいつも真ん中でなくちゃいけないということではなく、受動的であることが強く働いている時や、
能動的であることが強く働いている時もあるでしょう。
 
揺れているんです、いつも。
 
そんな時々に、「んっ?」現在わたしはどちらに片寄っているのだろうか、と立ち止まってみることが大切なのだろう。
 
「噛み合わせ」が、どちらに片寄っていたのか、良くわからないのですが、おかしいな、とは気付いていました。
 
 必要なのはやっぱり根っこに迫ることですね。
 
2018.2
明石 紀久男
 
 

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2018年   2020/08/02   スタッフ