会報バックナンバー

2016年

(2016年10月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/002/秋号

2016年10月発行/002秋号
◇明石から ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
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(内容は、2016年10月時点のものです。)

孫を娘が産んでくれました。
十月二日(日)午前三時十三分、
三二0六(g)の男の子、です。
 いまさらながらですけれど「生命」の連関―歴史、を感じ直しますね。
 普段、ついつい忘れてしまっていることですけれども、
 父と母から産まれ、
その父にも父母、母にも父母。その父母にも父母・・・・・。と連なり、何千年、何万年(?)までもさかのぼれる訳ですよね。
現在、ここ、このときを生きている、というのは、そういうことですよね。
そうした生物学的な「生命」としてだけではなく多くのもの、こと、との関係の中でそれぞれが、与えられた時間と場を生きついできた。
それが「いのちの営み」としてつづいてきた歴史ですよね。また言ってしまいますが、に凄いことだと深く感じ入ります。

しかし、わたし達は、日頃はそんなことにいちいち感じ入った暮らしをしていません。だから、他者(ヒト)を見るときに、目の前の「その人」を見ているのであって、「その人の歴史」までは見ていません。
しかし、ひとつひとつの「いのち」は、えいえいと永らえてきた歴史を背景をもって存在している。
 
「いらないいのち」や
「役に立たないいのち」など存在するはずがないのです。
 
「いらない」とか「役に立たない」とか、そう考える背景にあるものは何でしょう?たかだか人間たちがつくり出した共同体(社会)にとって、いるとかいらないとか、また役に立つとか立たないとか、といった考え方なんでしょう。それは、大いなる“自然(じねん)”のもとに立ったものではありません。
 
 不登校とか、ひきこもるとか、も実は同じ考え方に立った捉え方ですね。
人間がつくったルールに、しかも現代という目先の共同=社会に適応(いる・役に立つ)しているかどうかを基準に推し測って決めつけている。

そもそも「障害」という考え方自体がそうですよね。目の前の社会が「障害」をつくり出している。「障害」とはまさに社会がつくり出しているものです。
現在(いま)社会は、さかんに「発達障がい者」(自閉症スペクトラム障がい)をつくり出し「障害」という生きづらさを抱え込ませて排除しています。
 思うようにしたい人達の思うようにならないものは「障害」にする。
その人たちにとっては確かに「障害ぶつ」ですね。
 しかし共同は自然の中にある「いのちの営み」として存在している、存在しつづけてきたんです。
「いのちの営み」の歴史をひとりひとりに感じ、しっかり見つめたい。
 現在(いま)私の前に生まれ来た「いのち」と一緒に内なる自然(じねん)の「いのちの営み」をつづけたいと思います。
 そのために必要なもの
それは 熱狂や競争からおりること、解放された時間と場をもつことではないでしょうか。
静かな日々の中に、ゆっくりと丁寧に身体(からだ)と気持ちを落ち着ける。
そんな共同=環境がつくられていくことが必要なのではないか、と思います。
 
2016・10 明石 紀久男
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2016年   2019/10/13  

(2016年7月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/001/夏号

2016年7月発行/001夏号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
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通信001・夏-002...
(内容は、2016年7月時点のものです。)

 遊悠楽舎を始めて16年目に入った今年、「近代」が生んできた社会(共同)の断末魔的状況としか思えない事件がつづいている。
まさに今日の未明に、県立の障害者施設で、歴史上、前例のない多くの人の生命を奪う、大きな事件が相模原市でおこった。
まだ全容がわからないのでこの事件に特に言及はできないが、アメリカでの銃乱射事件が続き、アフガニスタンでテロ、トルコのクーデター未遂、ニースでテロ・・・・・。
均衡を失った社会(共同)が、壊され崩れて行く様。
 強いものと弱いもの、持っているものと持っていないもの、勝者と敗者、というような構造が折り重なり折り重なり、あたかも弱者の中での強者や、敗者の中での勝者のような、幾層もの差別化の中で、生命の奪い合いが露呈してしまって来ている。

 現在、人類は世界的な行きづまり感の中で、「これ迄通り」生きようとする者たちと、そうではなく、立ち止まり、もう一度「生きる」ことの原点に立ちかえって「経済成長」や「発展」や「進歩」に懐疑の目を向け、分かち合い、支え合い、生き合う「共同(社会)」づくりに向けて、考え、行動しようとする人たちが沢山でて来ている。

 対処療法的に考え行動することにだけ終始してしまうことから脱出し、目線をあげて、少し遠くを見つめ、より本格的なもの・ことを大切に捉えて、足許を見つつ、より根源的な「生命の営み」に向き合い、少し大きなサイクルを意識した日々の在り方への転換が始まり出しているように思います。

 まだまだ少数です。でも気づき始めた。このままでは生きていけない。
 生きあうための「共同」を見出して行かなければ
「対立」と「憎しみ」の構造から解放されない。

多様であることを認め、受け入れ合っていくことの難しさを痛感しつつも、
 生きあうために
生かしあう道を模索することしか残されていない。
 
 「違いを認め、大切にしあう。」
とてもシンプルで簡単にきこえる。
 しかし、それができていないし、できないで来た悲しい歴史をわたし達は生きている。
 
 だからこそ、いつまでも、空しくスローガンになりつづけているのだろう。
 
2016・7 明石 紀久男
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2016年   2019/10/06