(内容は、2018年4月時点のものです。)
3月21日、咲き始めた桜に雪が降りました。そして数日後には、半袖になる様な夏日!地球温暖化が進行し、異常気象になっていると警笛が鳴らされて来ましたが、どうもその「異常」が当たり前になってしまい出した感がします。
「常識(=ふつう)」がずれだした。今迄の「常識」がどんどん通用しなくなりだした時代そして社会。
受け入れて、そうなのかぁ〜と諒解するしかない。勿論これは、お天気の話ばかりじゃありません。
有名飲食店のデタラメから、大企業のデータ改ザン。とうとう財務省や防衛省といった、民主主義社会の根幹を支える組織のデタラメと嘘が、公然と、しかも平然と明らかになる時代。政権・国家として成り立っていない。
異常が当たり前になる社会!
凄い時代を生きているんだなぁ、と日々つくづくと考えさせられます。
凄い時代を生きているんだなぁ、と日々つくづくと考えさせられます。
子ども達は、孫たちは、大丈夫なのだろうか、と、これから先がとても心配になります。
わたし達、現代を生きる者が何をどう選択するのか、それが将来を決めて行く。
「わたしの選択」それは大きな話ではなくて、日常の生活の中の、小さな小さな選択の話なんです。
ちょっと面倒だけど、ひと手間かける。お茶を入れてポットを使う。いつも使っている「何とかの素」ってやつを使わず、例えば道場六三郎さんが教えてくれているように出汁を取る。
面倒でも、手間ひまをかける選択をすることが、実は凄く大切なことで、そのことが将来への舵を切っていることになるのだ、と思います。
いま、どの方向に舵を切るのか
新しいものをいいものとして受け入れて来た歴史があります。江戸から明治への転身、そして1945年敗戦後、今迄の古い価値観は捨てられ、ぞくぞくと入ってくる米欧の新しい価値観。
神国日本のために命を捧げることが正しく、美しく、最高の価値にされていました。それを全て「墨塗り」にして、突然自由平等、民主主義、男女同権、という価値観が移植されたわけです。
移植されたものが、そう簡単に定着するはずはありません。移植されたものは中々一体化しにくいと思いますが、もの凄いスピードでアメリカという国家の利益(原爆情報の独占や、小麦の売りつけ等)を背景に、ドカドカと押し寄せ、入り込んで来ました。
「新しいものがいいものだ」と、わたし達も大歓迎。「変化すること」を強要されているとは気づかず、受け入れつづけて来ているのではないでしょうか?遊悠楽舎を始めた18年前、携帯電話はありませんでした。ピンクの公衆電話が廊下に設置されていました。僕はガラケーですが、ほとんどはスマホですよね。次から次に新機種です。アマゾンがトランプ大統領ともめていますが、新しいサービスは止まることがない。玄関前にドローンが来るのももうすぐでしょう。
変わらない、という選択はどうでしょう?せめて、現状維持。変えない、変わらない。
ドローンもリニアモーターカーも、原発も本当にいるんでしょうか。「もうこれ以上いりません。」と言いたいです。
何故か常に変わることを求め「変わらせよう」とすらしている「わたし」に気づきませんか。
進んでいるつもりで、後退している。
進めているようで「人間としての在り様」は実は何も変わっていないのではないでしょうか。
「便利であること」「面倒くさくないこと」を手に入れることで実は大切な多くのもの・ことを
手ばなして来てしまってはいないでしょうか。
手ばなして来てしまってはいないでしょうか。
立ち止まってゆっくりと時間かけて、ひとつひとつ丁寧に向き合って考え、行動する。
という「選択」を、まずは小さなひとつから始めてみませんか。
という「選択」を、まずは小さなひとつから始めてみませんか。
2018.4 明石紀久男