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(2017年11月発行)会報『季節の風(ときのかぜ)』/005/秋号

2017年11月発行/005秋号
◇明石から ◇できごと ◇これから(講師、講演会予定など) ◇スタッフのつぶやき ほか
通信005・秋-001...
通信005・秋-002...
(内容は、2017年11月時点のものです。)
始まりの終わり、そして、終わりの始まり。
 
遅れて「秋」号です。
台風21号、22号。
そして総選挙まで、バッタバタの日々が二週続きの台風と一緒にぶっ飛んで行ったようです。
しかし、しっかしです。本質的な問題は何一つぶっ飛んでおらず、益々「大変な事態」はすすんでいます。
そんな時だというのに、
いや、そんな時だからなのでしょうか、
17年続けて来た遊悠楽舎の居場所を一旦閉じることにしました。
通ってくる子(人)が、居なくなったのです。誰も来ない日が続いています。
「居場所」とは何なのでしょうかね。
提供していたつもりの「居場所」は、いつの間にか、「わたし」にとっての居場所になっていたように思います。

「居場所」が用意され、提供されることがとても大切だ、と考えられた時期がありました。
現在(いま)もまだ、あちこちで語られていますがね・・・。
その地域の人たちには確かに必要なのかもしれないと思います。
しかしいま、わたしは大船で「ぷらっと」という居場所の提供にかかわっているのですが、
「居場所」は用意され、提供されるものではなく、
参加する人たちによって創られていく「場」なのだと思うようになりました。

確かに頭初は用意され、提供されるのですが、「場」として一人歩きを始める。
そこに参加するスタッフも含めた全ての面子(めんつ)で創り出していくものになっていく。
つまり「居場所」は、頭初用意され提供されるのですが、そこから先は、
その場への全ての参加者によって勝手に創られていく「場」になる。
 
これは、居場所に限らず職場とかあらゆる「場」は、そこに参加する人たち全てが主役なのです。
「場」づくりは、意図して、目ざせるものではなく、
参加者によって「自由」に創り出されて行くものなのではないでしょうか。
各々の気持ち、想いがどう寄せ合わせられるのか。
「居場所」が無い、と言う場合、創り出せる場を持てない。
つまりそうした場づくりのできる「関係の中に居ない」ということなのでしょう。
 
動いていく「場」に参加する。
何だか違う、違和感のある方向だとしたら「わたし」は降りる、としてしまう。
「わたし」が存在できる、居心地よく、居られる「場」をめざして「他者」と調整していく。
その「関係に生きる力」がひどく弱まってやしないか。

それよりも更に、
「関係にいきようとするいのち」の働きにしっかり配慮して、「場づくり」を受け入れ応援できる力が、
「わたし」たち、用意し、提供しようとする側にあるのか。
つまり「おとな」と言われる側に、その力が育っているのか、
そのことが問われているように思えます。
 
蘆花公園の「居場所」は閉じられたとしても「場」はありとあらゆる「空間」と「時間」の中に存在しています。
 
「関係を生きようとするいのち」以外のいのちは存在しません。何故なら、
ヒトは「関係の中に生きる」存在だからです。
 
他者との関係を生きること、自分=「私」との関係を生きること、
そうした、“こと(行為)”が意識されにくくなっている。
見えにくくないですか。
 
「場」が参加者全員によって創られていく、つまり、家庭(家族)も同じなのです。
この場、この時を生き合ういのちが、「みんなの生きる」を創っているのだと思います。
 
2017.11
明石 紀久男
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  2020/01/22   スタッフ