「自助」というお化けが大暴れしている。
コロナ禍の中「マスク、手洗い、うがい、三密回避」の自助努力は、わかる。
しかし、「自粛警察」という自警団意識。
スピーチロック(*)と言われる、物言わせず、各々の価値観、生き方を認めない「自助」の強要。
しかし、「自粛警察」という自警団意識。
スピーチロック(*)と言われる、物言わせず、各々の価値観、生き方を認めない「自助」の強要。
「自助・自己責任」として、個人の責任に閉じ込める。
これはコロナウィルスの感染によって始まったことではない。
これはコロナウィルスの感染によって始まったことではない。
川には表層・中層・底層の流れがある。
ろうろうと流れる川の中層に、流れの早い表層を支え、育てるものとして
130年程前に初めて「日本」という国家がつくられた(それ迄のお国は藩だった)時からの流れなのだ。
ろうろうと流れる川の中層に、流れの早い表層を支え、育てるものとして
130年程前に初めて「日本」という国家がつくられた(それ迄のお国は藩だった)時からの流れなのだ。
国内の藩による戦から海外(外敵)との戦いに向けて「国民国家」がつくられた。
「お上に奉仕する」「富国強兵」政策である。
そのことに欠かせないのが「国民としての自覚」であり、「滅私奉公」し、お国の世話になってはならない。
お国の迷惑になるな、という洗脳である。
「お上に奉仕する」「富国強兵」政策である。
そのことに欠かせないのが「国民としての自覚」であり、「滅私奉公」し、お国の世話になってはならない。
お国の迷惑になるな、という洗脳である。
それが流れの中層にあって、ひどく損得でものを考えるように仕立て、
コントロール(支配)できることこそが最も大切だ、という近代化と言われる表層の流れの根本・合理化という
薄っぺらく深みのないものに、どんどんと川幅を広げ大きな流れの主流を犯されて来てしまった。
コントロール(支配)できることこそが最も大切だ、という近代化と言われる表層の流れの根本・合理化という
薄っぺらく深みのないものに、どんどんと川幅を広げ大きな流れの主流を犯されて来てしまった。
わたし達の「生きる」の根底にあった底深い流れはやせ細ってしまった。
しかし失われてしまった訳ではない。脈々と堂々と深底を流れている。
それは「かかわり、共同の中にあるいのち」であり、頼り合い、助け合い、生き合おうとする流れである。
それは「かかわり、共同の中にあるいのち」であり、頼り合い、助け合い、生き合おうとする流れである。
コロナ禍で人と会える機会が大きく減っている。
それは、今迄のかかわりの中身を検証することが求められているのだ。
不要不急の外出をひかえる、と繰り返し言われる。その通りだ。
だから断じて必要であり、急がないが決して失ってはならない、
譲れない「他者との直接接触」は、手離してはならないのだ。
それは、今迄のかかわりの中身を検証することが求められているのだ。
不要不急の外出をひかえる、と繰り返し言われる。その通りだ。
だから断じて必要であり、急がないが決して失ってはならない、
譲れない「他者との直接接触」は、手離してはならないのだ。
やせ細った「かかわり・共同」を今こそ、もう一度見直し、
今ある貧相な窮屈な関係から解放され、仲間として、生き合う友人としてのかかわりを取り返すときなのだ。
今ある貧相な窮屈な関係から解放され、仲間として、生き合う友人としてのかかわりを取り返すときなのだ。
脈々と流れる底流のわたし達の伝統は、無尽(むじん)や結(ゆい)や、
互いに助け合い、この厳しい環境の中で、力を合わせて生き抜くことにあったのだ。
互いに助け合い、この厳しい環境の中で、力を合わせて生き抜くことにあったのだ。
そう思い起こせる世代は、まもなく絶滅の危機に瀕する。
このコロナ禍だからこそ、かかわらないのではなく、
置き去りにして忘れて来た「融け合うかかわり」をいまこそ取り戻していくチャンスが到来している。
置き去りにして忘れて来た「融け合うかかわり」をいまこそ取り戻していくチャンスが到来している。
他人事ではない。「わたし」ごととして「わたし」が感じ考えて行動していくことだ。
2020.11 明石紀久男
(*)スピーチロックとは、
言葉で相手の行動を制限したり、拘束したりすること。
特に医療や介護の現場で、患者や高齢者の行動を言葉で制限・拘束すること。(デジタル大辞泉より)
特に医療や介護の現場で、患者や高齢者の行動を言葉で制限・拘束すること。(デジタル大辞泉より)