(内容は、2019年11月時点のものです。)
こんなに綺麗な空を見たことがあっただろうか、と思えるほど、夏空から秋空にうつりかわる、この時期の空の、青のグラデーション、そして雲たちのおりなす姿の美しさ。それを演出するかのように扇のように大きく広がるうろこ雲と、ぽっかり浮かぶ雲を静かに止めおく風の流れの絶妙さ…。
これが「自然なんだ」なぁ、と思わせてくれる光景が眼前に広がる。
こんなに美しい世界に生きているんだ、と。今さらながらに痛く感じ入る。
自然はわたしたち人間に感動を与えてくれるのだが、人間たちの在り様に、あたかも異議の申し立てをしているような所業を見せることもある。
15号につづく19号の台風の襲来は、わたしたちの暮らしが、いかに自然から遠く離れ、不自然なものになっているかを思い知らされる機会になったのではないだろうか。
雲がゆったりと流れて行く。
雲が流れているのか「わたし」が自転しているのか、空を見上げなければ、この美しい雲に出会うこともないし、美しいと感じる「わたし」に出会うこともない。
出会うことによって感じることができるし知ることができる。出会わなければ何ごともないことになる。つまり存在を知ることがなくなる。(感じる「わたし」の存在にも。)
認識ができない。
認識できなければ、まったく関係をとり結ぶなんてこともできない話です。
ライオンを知らなければライオンという動物はこの世に存在しないことになりますよね。
目をそむけず、しっかりと見つめること。の大切さを思います。
何を見るのか、感じるのか、それは自然の一部として存在している「わたし」です。
「わたし」が不自然であれば、必ず自然からの異議申し立てを受けることになるのだろう、と思います。
「社会」という人間がつくり出したシステムの中に、余りにもよりかかりすぎて来たのではないか。
「科学技術」という評価、認識に余りにも埋没して来たのではないか。
「人間」は自然をコントロールできるかのように思い込んで来たのではないか。「わたし」という自然さえもコントロールできないのに、原発をアンダーコントロールと言い放つ権力者を生んでいる。
そんな現在(いま)という時代を
わたし達は生きている。
「ともに生きる」とか「共生社会」とか言われているのは、そうなっていないからですよね。
「ともに、誰と(なにと)生きる」のか「共生」する「社会」とは誰と(何と)共生する「社会」というシステムを生きるということなのか。
生者(全ての生き物)と死者(先祖だけでなく食卓にあがってくれる生命たち)とそれら全てを育み、包んでくれている大自然と「ともに生きる」「共生社会」が求められているのではないか。
「自然(じねん)に生きあう」ことにしたいですね。
2019.11 明石紀久男