(内容は、2019年5月時点のものです。)
シリーズ「80・50」
理不尽なことが起こる。
そうした「もの・こと」が準備され、そうした「もの・こと」はおこる。
そうした「もの・こと」を実は含みこんだ社会、時代、をわたし達は生きているし、生かされている。
生きざるを得ない状況に現在(いま)がある。
生きざるを得ない状況に現在(いま)がある。
見えていない。いや見ようとしていない。うすうすはどこかで感じているのではないか。
怖い。恐ろしい、不安な、うっとうしい想いが「わたし」の中にも・・・実は生まれているのではなかったか。
突然、何てことがおきるんだ!!
「あり得ない」「信じられない!」しかし、
「もの・こと」は起こるべくして起きている。だとすると準備されている「もの・こと」が見えていない。見ようとしていない「わたし」が居るというだけのことなのだろう。「わたし(たち)」が見たくない、見ようとしていない「もの・こと」とは何なのだろうか。
それは「変化への態度」なのではないだろうか。「わたし(たち)」は、変わりたくない。きょうのままの「あした」が安定しているし安心できる。と思い込んでいる。
しかし環境も、状況も、刻々と変化している。
何もしなくても「変化し続けて」いる。そのことについて行くのが精一杯なのかもしれない。
人間の細胞は3ヶ月で全て入れ替わっているらしい。
なのに「変化」を恐れ、頑としてこの流れの中に居ようとする。それは「質よりも量」という変わらない基準である。
量を基準にした体制(制度)はちっとも動かない。わたし(たち)自身が量で計ることに慣れ慣らされて来てしまっていて、「質」とは何かを見失ってしまっているかのようである。常に求められるのは○、正解の量なのである。
税金も多くの場合、質にではなく量によって配分され続けている。
30年程も前に、当時の担当課長に「財務課を通すには“数字”なんだよ。能書きでは通らない。」と言われたことを思い出す。つい最近もかんぽ保険、郵便局の年賀状がやり玉にあがっていた。売り上げノルマとは良く聞く言葉だ。そうした「もの・こと」の全ては、貨幣、つまりお金の量に行きつく。
より多くのお金を得る、得られる方法。かしこく上手に手に入れる。沢山の貨幣を得ることのできる生き方。
汗して得たお金も、拾ったり、盗んだりしたお金でも、一萬円は一萬円である。つまり「質」は問われることがない。
価値があるのは貨幣に換算できる「もの・こと」があるという基準。障害のある人や、子どもを産まない女性に対して「生産性」がない、と言い放つ。
あたかも貨幣(お金)にならない「もの・こと」には価値がないかのようである。
しかし、僕がずっとかかわっている「ひきこもる」人とその家族への応援は、時間がかかる。つまり質も量も大切だ。
時間をかけてすれ違って来ているものを、理屈や論理で、さっと変えることなんてあり得るはずがない。
見えやすく、理解しやすい量に走って、見えないものを見ようとしない、質を忘れて来たことによる「事件・事故」が続き、とどまることがない。
何がそうさせてしまっているのか、を考えるとき、「生きていてもしょうがない」といった言葉に象徴されるような、ひとつひとつ、ひとりひとりの「いのち」「生きている」ということが、その存在の質として大切にされていない現在(いま)の「わたし(たち)」の在り様「日常」に閉塞感が重く充満しているように思う。
見えない「もの・こと」をみようとすること、感じようとすること、「もの・こと」の本質を見つめようとする態度が現在(いま)もっとも請(もと)められているのだと思う。
2019.8 明石紀久男